草梁倭館

 文字通り朝から晩まで、一ヶ所でも多く見ようと歩き回っていた2回目の韓国旅行も間もなく終わります。疲れていたので昼食後はホテルで少し休み、夕焼けを展望台から眺められるよう時間を調整して、最後の訪問地にと決めていた釜山タワーに向いました。
江戸時代ここには、唯一の在外公館「草梁倭館」がありました
江戸時代ここには、唯一の在外公館「草梁倭館」がありました
 地下鉄1号線南浦洞で下車すると、タワーの建っている丘の上までエスカレーターが利用できます。エスカレーターを上りきった所が標高20mの龍頭山公園です。朝鮮通信使の時代には草梁倭館があって、日韓貿易の拠点となっていた場所です。


 草梁倭館:『15世紀、日韓交易の拠点として半島南部には3ヶ所の港(日本人居留地)が設けられていた。1678年、それらを統合してこの地に移した。草梁倭館は総面積10万坪の広大な敷地で、江戸時代日本の唯一の在外公館として、常時400から500人(本によっては500から1000人)もの対馬藩の人々が、外交・貿易の仕事に従事していた。倭館はその後約200年間存続したが、1876年以降は日本人専管居留地と変わった』。
1872年の倭館図:牛窓海遊文化館展示品
1872年の倭館図:牛窓海遊文化館展示品
 当時ここには日本家屋や神社が建ち並び、対馬藩士だった雨森芳洲も何度もこの地に出向き、外交交渉や貿易に携わっていました。在任中に直接対話の必要性を感じた彼は、3年間かけて韓国語を学んで韓国語の入門書「交隣須知(こうりんすち)」を著したり、対馬藩内に朝鮮語学校を設立して通士(通訳のこと)の育成に努めたといいます。

 この図は牛窓の海遊文化館にあった『1872年、対馬藩が明治新政府に返還した時の倭館図』。左手の山が釜山タワーの建つ現在の龍頭山公園で、その前方に広がっているのが草梁倭館と交易のための日本船が行き来していた釜山港です。

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