燈籠の由来

 『第12代景行天皇九州巡行時、菊地川を遡って山鹿に上陸しようとしたが霧に行く手を阻まれた。その時、山鹿の人々が炬火(たいまつ)を持って案内し、天皇一行は無事上陸することが出来た。以来、行在所跡(大宮神宮)に天皇を祀り、毎年灯火を献上したのが「灯籠」の起こり。 − 民芸館のパンフレットより 』

 「ムム、景行天皇?!」。政治色の強い「記紀」は、何かうさんくさい気がして今まで敬遠してました。そもそも、神話上の”神武”と現天皇(編纂時は持統天皇)まで一本の線で結ぼうと、即位年(紀元)を設定した点からして(それもBC660年とは!)「怪しい」ではないですか。でも九州には各地に「景行天皇の巡行伝説」が残され、彼を避けては通れないようです。

天井から吊るされた無数の灯籠の明かりで幻想的な館内
天井から吊るされた無数の灯籠の明かりで幻想的な館内
 「仕方がない」、帰宅してから関連の本を読んでみました。景行天皇は息子ヤマトタケルノミコト(「古事記」では倭建命、「日本書紀」では日本武尊)を熊襲討伐に九州に遣わしたとされる人物。倭建命は神話上の人物かと思っていましたが、まあここまでは「OK」。問題はこの先です。

 「魏志倭人伝」で紹介された”邪馬台国”や”卑弥呼”、”倭国”や志賀の島で発見された”金印”の記述もない。それどころか、”卑弥呼”が”神功皇后”に想定されたり、初代天皇の即位を遙か昔にしてしまった関係上、100才をこえる長寿天皇が続いたりで、読めば読むほど”史実”は霧の中。

 「天皇制の正当化」目的に作られた物ですから、逆算法で作られた説話の挿入が多くて、パズルとか迷路と言うよりまるで蟻地獄。 装飾や後付けを取り除き、やっと史実に「一歩近づけた!」と思った途端、「ズブッ!」と以前より深くもぐってしまう。この調子だと「九州編は完成できないのでは」と、絶望感すら覚えてしまう日々でした。 これではならじ。専門家ではないのでここはちょっと目をつぶり、関心のある方はご自分で調べていただくことにして、先に進むことにします。

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