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 2時間近く飲み続けた頃、「仙石線が動き始めました」と情報が入りました。多賀城へは東北本線の国府多賀城駅からが近いのですが、仙石線の多賀城駅からでも行かれます。もう少し呑んでいたい気もしますが、「すわ鎌倉」。ようやく重い(?)腰をあげました。仙石線の多賀城駅までは約20分、駅前の地図と案内板で概要をチェックし、ここからタクシーで多賀城へ向かいました。
駅前の案内地図
駅前の案内地図
 多賀城址:『神亀元年(724年:聖武天皇)、東北経営の拠点として、又蝦夷対策軍事基地として建てられた。戦火や地震で数度の建て替えがなされ、9世紀末(869年〜)の第4期修復の後、10世紀半ばにその使命を終えた。−案内板より引用−』 

 駅からは多賀城廃寺跡を通り、東北歴史博物館の建物を横目に走ることしばし、東北本線の踏切を越えたところが多賀城跡でした。外に出てみると雨は止み、風も少しおさまってきたようです。敷地のあちこちに水溜りがあり、足元がぬかるんで歩きにくかったのですが、傘をささなくてすんだだけ「良かった」。

 周辺はまだまだ発掘中らしく、青いビニールシートが目立ちます。復元されているのは中央の、第二期(760〜780年代)時代の正殿跡と玉石敷広場。遺跡内を歩き回るうちだんだんと、九州の大宰府政庁跡にいるような気分になってきました。
多賀城址
多賀城址:石敷き広場と政庁跡
 663年の白村江の戦いで惨敗した日本・百済連合軍。戦後大挙して海を渡ってきたであろう百済の人々を収容するためには領土の拡大は不可欠。「東北の豊かな天然資源(金など)と広大な土地」はどんなにか魅力的だったことでしょう。蝦夷討伐と称して東北への圧力を強めていったのは、そんな内部事情があったのかもしれません。東北地方への侵攻は、チベットに進軍して大量の漢民族を送り込む、中国共産党の動きと重なって見えてきました。

 大宰府は大陸への備え、こちらは東北蝦夷への最前線。この地に派遣された兵士たちはどんな風景をみていたのでしょうか。当時の為政者が領土の保全と拡大に、右往左往していた様が併せて想像され不思議な気分にさせてくれた遺構です。

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